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2008年9月の14件の記事

2008年9月29日 (月)

デリーの遺跡 8-1ムガール王朝(Mughal rule) プラナ・キラ(Purana-qila) 6th City of Delhi

インド・ニューデリー駐在員がお届けしているマカイバリジャパンのインド駐在ブログ。

インドに出張中の石井洋子がお届けします。


ムガール王朝 (Mughal Rule1526-1857)の統治

ムガール王朝は南インド、ベンガル地方、ペルシャとの国境
まで奥深く王国を広げていきました。

1650年まで王国の首都はアグラでしたが、デリーには
プラナ・キラ(Purana-qila)に第6番目の都市を造りました。

モンゴル人は、ペルシャ建築様式に非常な感化を受けて
自分達特有のスタイルの建築物を追求しました。美しい
建築物が多く残されています。

ムガール軍隊の有力な指揮官クラスは、ラジプット(Rajput)
の有力者との異なる人種との結婚を積極的に行い、英国が
デリーを攻撃し征服者になるまでインドに住んでいました。

ラジプットは、デリーに1052 年に攻めてきて王国をつくった
アジメール人です。勇敢で気品があり、身体も大きく
立派だったのでムガール王国から尊敬をされたのでした。

Photo_11
≪プラナ・キラは入場料を払って入ります。整備されています。≫

Photo_12
≪城壁≫

Photo_13
≪延々とつながる城壁跡。幅広く、頑丈につくられています。≫

Photo_14
≪モスク≫

Photo_15
≪お墓≫

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≪お墓≫

Photo_17
≪図書館≫

Photo_18
≪入浴場の跡。火を焚く場所があり、暖かい水が流れるように
  設計されている。≫

Photo_19
≪植木屋さん。間もなく涼しい季節をむかえるので、
植木屋さんも忙しくなります。≫

                            続く

 


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デリーの遺跡 7-5 ロディ王朝(LODHI DYNASTY)5th City of Delhi

インド・ニューデリー駐在員がお届けしているマカイバリジャパンのインド駐在ブログ。

インドに出張中の石井洋子がお届けします。


ロディ 王朝(LODHI DYNASTY)

サイイド王朝の次はロディ王朝になります。
この王朝はデリーのあらゆる神聖な場所に自分達の死後のお墓を
造りました。偉大な聖人ニザムディンにもお墓を造り、
ロディ王の希望によりニザムディンに埋葬されました。

ロディ王朝の遺跡はあらゆる場所で現在でも見ることが
できます。有名なのはロディーパークの名前の立派な
公園がありますが、その中にお墓があります。

デリーゴルフ場はこのロディ王朝の遺跡をレイアウトして
イギリス人が設計しました。

我が家の近くのグルモハールパークもロディ王朝の遺跡の
中に公園がつくられています。

この頃中央アジアでは、モンゴル人が力を得てきて次々に
征服をしていました。とうとうデリーにも攻めてきたので
ロディー王朝は首都をアグラに移します。

しかし1526年 モンゴル人の偉大なカブール(Kabul)王
バーバル(Babar)に征服をされてしまいます。

そして、これ以後300年間バーバル(Babar)一族のモンゴル人
によりムガール王朝のインド全体統治のスタートになります。
5代目がタージマハールで有名なシャージャハンです。


Photo
≪ロディ公園の中にあるロディ王朝のお墓≫

Photo_2
≪上記の墓の内部の天井。美しい装飾がされています。≫

Photo_3
≪ロディ公園の中にある別のお墓。現在修理中です。≫

Photo_4
≪デリーゴルフ場の中にあるロディ王朝のお墓。
18ホールのメインコースはロディコースと命名されています。
9ホールのショートコースはピーコックです。≫

Photo_5
≪ロディ公園の池に蓮の花が咲いていました。≫

Hasu
≪ロディ公園の池に白い蓮の花も咲いていました。≫

Syokuji
≪オールドデリーの街の食事屋さん≫

Photo_6
≪オールドデリーの街で30年以上食事屋をしている親子の方。
誇りを持って仕事をしている笑顔がとてもよかったです。≫

                     続く


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2008年9月27日 (土)

デリーの遺跡 7-4 サイイド王朝(SAYYID) 5th City of Delhi

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サイイド王朝 (SAYYID DYNASTY ) 1414年~1444年

この王朝は ヒサル カン(Hisar Khan)が最初の王ですが、小さな
王国でした。ツグルクの全ての都市と宮殿、モスク、及び、国の
統治のルールも引継ぎました。この王朝がつくったのは、自分達が
死後にはいるお墓のみでした。

統率者が代わるたびに、古い遺跡に継ぎ足しをしたり、一部つくり
直したりしていますが、下記の写真はサイイド王朝までの遺跡や、
モスクなどです。

Photo_17
≪メロリにある宮殿跡≫

Photo_18
≪メロリの宮殿前にある貯水池と庭園跡≫

Photo_19
≪配水施設の跡。シリ・フォート≫

Syuusei
≪ハウスカスにあるモスク跡≫

Photo_20
≪ハウスカスエンクレーブにあるモスク。細長く、メッカに向かっています。≫

Photo_21
≪ヴァサントクンジにある井戸の跡。階段をおりて行って水を汲みます。≫

Photo_22
≪ヴァサントクンジにある入浴場施設。階段で入浴をします。≫

3_2
≪遺跡のある公園でヨガや瞑想を楽しむ人たち≫

Photo_23
≪瞑想をする人たち≫

              続く

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デリーの遺跡 7-3 フェロザバド(Ferozabad) 5th City of Delhi

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デリーの5番目の都市をつくった人がサルタン・フェロズ・ツグラクです。

フェロズは、3番目(ツグルク) 4番目(ジャハンパナ)のツグルク一族
の都市から城壁や、モスクを壊し、無料で石や材料を調達しました。

都市を今までの南デリー4都市から、かなり離れたヤムナ河の堤近くの
オールドデリーに第5の都市を作りました。有名な、立派な
とりでを、数多くつくっています。

フェロズ・ツグラクはあちこちにとりでをつくり、たくさんのお金を
費やしました。王国は経済的に貧しくなってきているところへ、
タイムル(TAIMUR)と呼ばれている別の中央アジアのトルコ族が
残酷な、攻撃をしてきたり、略奪をしていったりしたために、ます
ます貧窮になっていきました。

1414年最後のサルタンの死によりツグラクの統率が終わりになります。


Photo
≪フェロザバド第5都市。現在は観光地として入場料を払って
中にはいります。オールドデリーにあります。≫

Photo_3
≪敷地の中≫

Photo_8
≪敷地の中≫

Photo_4
≪遠くにアショカピラーが建っています。≫

Photo_5
≪敷地の中は広く、緑が多いです。≫

Photo_6
≪今がこの花の季節です。以前にもご紹介しました。
素晴らしいほのかな香りです。≫

Photo_7
≪花が散っています。≫

                      続く


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2008年9月25日 (木)

デリーの遺跡 7-2ジャハンパナ&アリダバドフォート(Jahanpanah & The Fort of Adilabad) 4th City of Delhi

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今までの流れをおさらいいたします。

★1st City Of Delhi 
 AD 915年から1192年まで:ヒンドゥ教
           インド人の統率者
 ・ラル・コット(LAL KOT)
 ・キラ・ライ・ピトラ(KILA RAI PITHORA)

★2nd City of Delhi
AD 1192年から1320年まで:イスラム教
  トルコ人キリジ族のサルタン(統率者)
 ・奴隷王朝クタブ(Qutub-Tin-Aibaq)
 ・キリジ・シリ (Khilji-Siri )

★3rd City of Delhi
 AD1321年から1414年まで:イスラム教
  トルコ人ガリ族のサルタン(統率者)
  ・ツグラカバド(Tuglakbabad )

★4th City of Delhi
 トルコ人ガリ族のサルタン(統率者)


 今日は第4の都市をつくったジャハンパナ(jahanpanah)の
 美しく、立派な宮殿、モスク、庭園の数多くを撮影して
 きましたので、その写真をお楽しみください。

Photo
アリダバド城 (The Fort of Adilabad)
広大な場所が今でも現存しています。

Photo_2
(ジャハンパナ城)

Photo_3
(ジャハンパナのモスク。上にいる人たちは、デリー遺跡の保存資料を
作成しているデリー大学の学生さんたちです。いかに巨大なモスクで
あるかが人との比較でわかります。)

Photo_4
(ジャハンパナのモスク)

Rajmisra_088
(ジャハンパナのモスク)

Rajmisra_07
≪城壁≫

Rajmisra_080
(ジャハンパナ城壁のすぐ隣で牛とともに生活をしている人がいました。)

                            続く

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2008年9月24日 (水)

デリーの遺跡 7-1 ジャハンパナ&アリダバドフォート(Jahanpanah & The Fort of Adilabad) 4th City of Delhi

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サルタン・ツグルクのジャハンパナは、

ラルコット(Lalkot city of No.1)
シリフォート(Sirifort city of No.2) 
ツグラカバド(Tuguhlakabadcity of No.3)と、
アディラバド(Adhilabad)の全てを統括した
都市造りをしました。

大きな貯水池と美しい広大な庭のある大都市でした。
征服者の宮殿にヴィジャ・マンダル(Vijaya Mandal)と
呼ばれる、美しいモスクも宮殿のなかにありました。

Jahanpanah
≪Tomb Yusuf Katal  美しい装飾を施したモスク。彩色されていたことがわかります。≫

Purana_qila_128
≪Tomb Yusuf Katal  上記のモスク内部≫

Photo
≪現代の職探しの人たち。朝仕事の道具を道路において
仕事が来るのを待ちます。ペンキ屋さんです。≫

5
≪大工の道具が袋から見えています。大工さんたちです。≫

Photo_3
≪技術のある人だけでなく、労働力もここでまかなわれます。≫

                  続く


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2008年9月23日 (火)

デリーの遺跡 6-2 ツグラカバド(Tuglakbabad )3rd City of Delhi

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デリーで第3の都市を造り始めていたサルタン・ツグラク・シャーは、
城から12キロメートル離れている場所に有名な聖人
ニザムディン(Nizamudeen)の為にモスクを造ることを
計画しました。

聖人ニザムディンは人々に大変尊敬され愛されていました。
全ての仕事をする職人や人々が、毎日12キロ離れている
聖人ニザムディンのところにやってきて無料でモスク造りを
始めました。

サルタン・ツグラク・シャーは、自分が造り始めていた都市の
人々が、皆、聖人ニザムディンのところに行ってしまって、
仕事がはかどらなくなりましたので、とうとう怒って、人々が、
聖人ニザムディンのところに仕事をしに行くことを禁じる法律を
作りました。

しかし、聖人ニザムディンの信奉者は夜、静かに、密かに
小さなランプをつけて美しいモスクを完成させました。

聖人ニザムディンは、サルタン・ツグラク・シャーに呪いをかけて
破門にしました。

その後、サルタン・ツグラク・シャーが作り始めていた偉大な
都市は、現代に至るまで、人が一人も住まなくなってしまったのです。
自然の水資源も涸れてしまいました。ジャッカルとハイエナだけが
生息しています。サルタン・ツグラク・シャーは、間もなく亡くなり
ました。

                          Photo_3
≪美しいニザムディンのモスク≫

2
≪モスクの入り口≫

Photo_4
≪昔も今も人の助けをしている象。荷物運びをしています。≫

Photo_5
≪昔も今も人の助けをしている猿。しらみとりをしています。≫


続く

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デリーの遺跡 6-1ツグラカバド(Tugulakabad) 3rd City of Delhi

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ツグラク(Tuglak)は、1321年から1414年まで11人の子孫によって
引き継がれていきます。イスラム教の君主をサルタン(sultan)と呼び、
最初は3人の息子のサルタンによりデリーの3箇所で、都市つくりが
行われます。下記の通りです。

1)ツグラカバド(Tugulakabad) 3rd City of Delhi
1321年~1325年
   サルタン・ツグラク・シャー(Tuglak Shah)

2)ジャハンパナ&アディラバド要塞(Jahanpanah & the fort of Adilabad)
 4th City of Delhi Adilabad
  1325年~1351年
サルタン・モハンバド・ビン・ツグラク(Mohammed-Bin-Tuglak)

3)フェロザバド都市 (The city of Ferozabad)
5th City of Delhi
  1351年~1388年
サルタン・フェロズ・ツグラク(Feroz Tuglak)
 
その後1414年まで11代続きます。

≪ツグラカバド(Tugulakabad) 3rd City of Delhi について≫
デリー第3の都市は、ツグラク・シャー サルタンによって造られます。
非常に頑丈で、丈の高い、大きな城壁で周りを囲み、自然の水源を
確保した立派な都市でした。


     Tughlakabadwalkways
(ツグラカバドの城壁)

Tughlak_tomb2
(ツグラカバドのモスク)

Img_0013
(ツグラカバドのモスクの内部も非常に頑丈につくられています。)

Img_0104
(城壁の前で。大きな城壁であることがわかります。)

Photo
(デリー大学の学生たち。デリーの遺跡が壊されてなくならいうちにと、
毎週あちこちの遺跡を写真に撮影して、保存の資料にしている
学生さんたちです。チャイ屋で遺跡の情報交換をしました。若い人たちの
努力で今後も遺跡が保存されていくことを望みます。)

Photo_2
(遺跡の前で散髪屋が開業されていました。デリーの風物です。)

                                            続く

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2008年9月20日 (土)

デリーの遺跡 5-2 キリジ・シリ (Khilji-Siri )2nd city of Delhi

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インドに出張中の石井洋子がお届けします。


キリジ・シリ国の支配者アロウディン(Allauddun)は、
カーストの低いトルコ・キリジ族でした。モンゴル族の
襲撃に備えて多くの城壁をつくり、大学をつくり、
モスクをつくり・・、30年間のキリジ・シリ国の治世でし
たが、偉大な統率者として名が伝わっています。

この頃の中央アジアはトルコ部族が、侵攻してきてそれ
ぞれに国をつくっていた時期でした。キリジ族と常に対抗
していたのが、トルコ・ガリ族(GHARI)でした。中央アジア
では常に敵同士で戦ってきた間柄です。

トルコ・ガリ族は、王家の血をひく高貴な部族です。
この頃はインドのパンジャビ(Panjab)地方を統治していました。

キリジ・シリ国アロウディンの息子が、低いカーストの
ヒンドゥ教徒の召使の男と親しい仲になっていることが
発覚して、トルコ・ガリ族は報復をかねてパンジャビから、
キリジ・シリ国を攻めて1320年に征服をします。
征服者はトルコ・ガリ族で、ツグラク(Tuglak)です。

ツグラクの統治は1321年から1414年まで11人の子孫に
引き継がれていきますが、1321年の最初の統治は3人の
息子によってそれぞれにデリーで都市を造ります。

デリーの3rd Cityf 、4th City、 5th City、と呼ばれて
いる都市です。
                (続く)

Photo_2
≪イスラム教の大学。ハウスカス・ビレッジの貯水池に面してあります。≫


2_3
≪聖人 マグドム・シャーのお墓( Tomb of Saint Magdoom Shah)≫

Photo_4
≪城壁≫

Hana_2
≪シリ・フォート遺跡の公園を歩いていましたら、清清しい、
まろやかな香りがするので、近づきましたら上記の花が
散っていました。大木にこのような繊細な花が咲いていた
のでした。あまりにも美しいので帽子の中にいれて持ち帰
りました。≫

Hana_115
≪上記の花の木です。名前はわかりません。≫

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2008年9月18日 (木)

デリーの遺跡5-1 キリジ・シリ (Khilji-Sili ) 2nd City of Delhi

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インドに出張中の石井洋子がお届けします。


奴隷王朝クタブの最後の頃になると、中央アジアからのトルコの
支配も弱くなり、総督の統率力も衰えた1290年に、トルコ族の
キリジ・シリ国(Khilji-Siri)アラウディン(Allauddun)に、征服を
されます。

キリジ・シリ国の支配者アラウディン(Allauddun)は低いカースト
の人間でしたが、外的から人々を守る多くの城壁を残し、イスラ
ム教の大学をつくり、貯水池をつくったりと、その1320年までの
30年間の治世は高く評価されています。

この頃中央アジアでは、モンゴル人ティンギスカンの征服が
始まっていました。デリー近くにもたびたび攻撃をしてきてい
ましたので、支配者アラウディンは、モンゴル人からの攻撃に
備えて、城壁の外で生活をしている人たちを守るために広大な
城壁をつくります。この城壁の都市がデリー2nd City と呼ばれ
ています。

その広大な城壁が、1982年にアジア大会の会場になった、
現在のシリ・フォートとパンチシラ(Panchshecl )地域になり
ます。都市への水の補給地域はハウスカス・ヴィレッジ
(Hauzkhas Village)です。
貯水池の傍には立派なイスラム教の大学の遺跡が残って
おり、現在でも美しい広大な池と大学の遺跡は散歩コース
として多くの人々の憩いの場になっています。

Photo_5
≪シリ・フォート城壁。 ラル・コット時代よりも高く造られています。≫


Photo_2
≪シリ・フォートの人々の水補給貯水池。現在でもアヒルが泳ぎ、憩いの場になっています。≫


Photo_3
≪CHOR MINAR  犯罪人の首をつったり、保管をしたりしていた塔で、人々にみせしめとしていました。≫


Photo_4
≪シリ・フォート城壁前のお茶屋さん。朝のひと時を新聞を読んだりしてチャイを楽しんでいます。
 城壁は現在は鉄の柵で保護されています。中は公園になっています。≫

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2008年9月15日 (月)

デリーの遺跡 4-2 奴隷王朝クタブ(Qutub-Tin-Aibaq)2nd City of Delhi

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奴隷王朝クタブ(Qutub-Tin-Aibaq)の奴隷アイバク( Aibak) が、
征服者トルコによって奴隷の身分でしたが、総督としてデリーを
任されることになります。

征服者のトルコは、アイバクに毎年インドからの宝石、絹、奴隷、
金等の貢物を送らせて、気候のよい中央アジアからデリーを
100年間統率します。

敬虔なるイスラム信者のアイバクはイスラムのモスクや遺跡を
建てることに力を注ぎましたので現在でも1200年代の多くの
遺跡とモスクがデリー市内に残されています。

美しいヒンドゥ教の27のモスクの一部を壊してイスラムモスクに
したり、AD4世紀につくられていた、鉄の柱をクタブミナールの
建物の中の一部に取り入れたりして、ヒンドゥ教との混合のも
のが数多く残されています。


アイバクの方針はその後の総督にも引き継がれましたので
1290年に(キルジ・シリ)Khilji-Siriに征服されるまで、クタブ
奴隷王朝が続きます。


                           Photo
≪ジャマリ・カマリ(JAMALI KAMALI )モスクの入り口≫ AD1200年代

Photo_2
≪ADAM KHAN ≫ AD1200年代

Photo_3
≪ジャマリ・カマリ・モスクの中の天井の模様。美しく保存されています。≫

Photo_5
≪AD4世紀に造られた鉄の柱をクタブミナール内に利用している≫

Photo_6
≪クタブミナールの柱はヒンドゥ教のモスクを利用している≫


                                         続く

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2008年9月11日 (木)

デリーの遺跡 4-1 奴隷王朝クタブ(Qutub-Tin-Aibaq)2nd City of Delhi

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現在のトルコは、紀元後600年頃から多数のトルコ部族が、中央アジア
に侵出し、中央アジアのあちこちに国を建設していました。1100年頃に
はアフガニスタンまで侵出してきていました。

1190年には、インドのデリーのチョウハン(chouhan's)王
 キラ・ライ・ピッタ(KILA RAI PITHORA)国に、トルコ将軍に
率いられた大軍が境界まで攻めてきました。しかし、トルコ軍は勇敢な
チョウハン王の軍隊に太刀打ちできずに多くの犠牲者を出して引き上
げていきました。

2年後再度トルコ軍は120000人の軍隊を率いて攻めてきました。
チョウハン王はわずか30000人の軍隊で戦いましたが、最後は負けて、
王は捕虜となり、チョウハン王の軍隊はアジメールに戻ります。

デリーを占領したトルコ軍でしたが、デリーのあまりの気候の暑さに
辟易して、軍隊での奴隷であった人間を総督として任命し、多くの
宝石とシルクと金と奴隷を収奪して、トルコ人の王は気候のよい中央ア
ジアに戻っていきます。

任命された奴隷が奴隷王朝クタブ・アイバク(Qutub-Tin-Aibaq)です。
そしてデリーでの最初のイスラム王朝がスタートしました。
この奴隷出身の王アイバクは、敬虔なるイスラム教徒でしたので
モスクや遺跡を数多く残し、その中でも観光地として有名なのが
クタブミナールです。

クタブ奴隷王朝は1290年までの100年間続きます。

Photo
有名なクタブ・ミナール(Qutab Minar)の塔

Photo_4

クタブ奴隷王によりインドで最初に建てられてモスクの入り口

Photo_3

モスクの全体像


Photo_2

絵文字がしっかりと残されている。今でもインドの人たちが
お参りにきており、門番が管理をしている。

Emoji_2

絵文字が残されている。
                                続く


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2008年9月 9日 (火)

デリーの遺跡 3 キラ・ライ・ピトラ(KILA RAI PITHORA)1st City of Delhi

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デリーの遺跡巡り3。 キラ・ライ・ピトラ(Kila Rai Pithora)王国


1153年にラル・コット王国は、ラジャスタン砂漠地帯のアジメール
(Ajmer)に国を構えていたラジプット・チョウハン(Rajputs chouhan)
王に、征服されます。アジメールからデリーまで攻めてきたのです。
王国の名前をキラ・ライ・ピトラ(Kila Rai Pithora)と呼びます。
宗教はヒンドゥ教です。

砂漠からやってきたキラ・ライ・ピトラ王国の人間は、背が高く、
肌は浅黒く、ハンサムな人種です。全員が長い髭を蓄え、
偉大な軍人としてのセンスをもっており、誠実で正直で勇敢でした。
その後、ムガール王朝が攻めてきて、キラ・ライ・ピトラ王国を征服
しますが、ムガール王国の人々は、キラ・ライ・ピトラ王国の軍人の
勇敢さに敬服し尊敬をしたと伝えられています。

Photo

【写真】現在のアジメール人

ラジプット王チョウハンは、ラルコット王国の領土ををそのまま支配し、
更に少しづつ領土を広げて行きました。城壁の技術も優れていて、
大きな石を使用し鉄のつなぎできちんと固定しています。その広げて
いった蛇のように曲がりくねった城壁が250キロメートルも続いています。
今でも城壁が残されており、サケット(saket)にある美しいゴルフ場の
塀は、そのまま城壁を利用して設計されています。 モスク、水路、
その他の設備も完備していました。

Photo_2

【ヒンドゥ教のモスク】

Photo_3

【今ではモスクの中には、こうもりが巣くっています。】

Satpura_canal

【サトプラ・カナル(Satpula Canal)の水路。生活用水の配水調節がされていました。】

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2008年9月 5日 (金)

デリーの遺跡 2 ラル・コット(LAL KOT) 1st City of Delhi

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デリーの遺跡巡り2。

デリーには7つの城壁遺跡と入植者がうちたてた紀元前1500年から紀元後400年までの遺跡があります。しかし、紀元後400年から紀元後915年までANANGPAL TOMAR王がやってきて王国を設立するまでの500年間、デリーは、殆ど見捨てられていました。

ANANGPAL TOMAR王の娘の名前はDILLIKAです。デリーと言う名は彼女の名前からつけられたとも言われています。そして ANANGPAL TOMAR王は、都市の名前をラル・コット (LAL KOT)と名づけました。
LALの意味は赤 KOTの意味は新開地です。デリーの遺跡は赤い石で作られています。

ラル・コットは現在のデリーの南の高台メロリ(mehrauli)に位置し、デリーの東はずれにはヤムナ河(Yamuna)が流れていますので、分水された川から自然の大きな貯水池が城壁の中にできています。ラル・コット(LAL KOT)は100年以上の間に国土を広げて行き、1153年には5万人の人々が城壁の中で生活をしていたと記録されています。

LAL KOT は 大きな宮殿と、市内を囲む長い城壁を造り、ヤムナ河の水を調節する水路も残されています。何年か前に考古学者によってLAL KOTの宮殿が掘り起こされましたが、すぐに元の状態で埋められて現在は植物が生い茂るジャングルの中にあります。埋められた場所を訪れると遺跡の状態が確認されます。

人生の偉大な業績をなした人の宮殿跡は今では大地に・・・。人間が死んだときと同じように遺跡は土の中に忘れ去られています。

最後の勝利者は大地だということを考えさせられます。


1_3

ラル・コットのお墓跡。

Photo_5


低地にできた自然の貯水池。ラル・コット時代の人々の生活用水になっていた。


Photo_6

宮殿跡。草木の覆われているが壁の跡が見える。考古学者によって掘り起こされたが、再度
土の中に埋められた。

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ラル・コットの長い城壁が遠くに見える。手前が城壁の中で現在はジャングルになっている。

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ラル・コットの城壁の向こうに200年後に造られた観光地として有名なクトブ・ミナールが見える。

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