カテゴリー「インド:都市」の23件の記事

2021年11月 8日 (月)

2021秋 マカイバリ茶園訪問記 秋 Vol:25  シリグリの街

2021年マカイバリ茶園秋訪問記(10月5日~10日)を発信しています!
インスタグラム、Facebookでアップしていたものをブログでも発信しています。

マカイバリ茶園への玄関、バグドグラ空港があるシリグリ(Siliguri)の街。
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西ベンガル州のヒンズー教徒の間で最も大きなお祭り「ダシェラ」が近かったので、街はお祭り用の飾り付けでカラフルでした。

バグドグラ空港はシッキム州への玄関でもあります。

シリグリの街の繁華街。
人と乗り物と牛が混在する、インドらしい街。(珍しく犬が映っていない!!!)

 

 

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2008年10月11日 (土)

デリーの遺跡の(最終回) 10-4  番外編  イギリスの統治

インド・ニューデリー駐在員がお届けしているマカイバリジャパンのインド駐在ブログ。

石井洋子がお届けします。

1857 年以後 イギリスの統治が始まりました。
植民地の建物、教会、埋葬所などを、オールドデリーに
建設しました。
その後、1912年には、それまでカルカッタにあった首都を
ニューデリーに移しました。
現在もインドの首都はニューデリーです。
                             (完)


長い間ご高覧いただきましてありがとうございました。
東京に戻ってきました。

久し振りに仕事を兼ねて、8月、9月の2か月間
デリーで過ごすことができました。
貴重な2か月間ですから、何か記念になることをと
考えました。

インドの人に見習って朝6時半から9時までウオーキング
の時間をつくりデリーの遺跡めぐりにあてたのでした。

多くのインドの友人や遺跡で出会った人たちに助けられて、
1000年代のデリーから、1800年代のイギリス統治まで
デリー7都市まで、こぎつけることができました。
未熟な内容ですが、多くの皆さまに見ていただき
感謝いたします。

今インドは大発展をしています。日々新旧が入れ替わる
めまぐるしさです。
しかし、その反面、古い遺跡を国が省をもうけて保存しています。
広大な遺跡跡を入場料をとって観光地にしているところも
ありますが、ジャングルのままにして人々の憩いの場にも
しています。

毎朝、インドの人々は 老若男女 歩け!歩け!ヨガ!瞑想!
精神的な幸せと平穏を求めるインドの人々の人生観には感銘を
受けました。

東京での仕事生活が始まりました。日本のよさにも感謝です。

次号からインド出張中の石井道子がお届けいたします。 

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≪ムガール王朝を征服してイギリスの軍隊が入場
  してきたのが、このカシミール門でした。≫

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≪イギリス軍が最初に建設した統治オフィス≫

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≪イギリス人がつくったお墓≫

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≪お墓に書かれた碑≫

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≪ニューデリー新都市に作られたイギリス時代の官邸。現在の大統領官邸≫

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≪官邸前の門。当時はイギリス王室スタイルの騎兵隊がいたそうです。
現在でも時々騎兵隊の閲兵をみることができます。≫


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≪新旧混在の現在のデリー市≫

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≪ごく普通の人が、このように立派なスタイルでヨガを公園で
しています。あちらでも、こちらでもヨガと瞑想です。≫


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2008年10月10日 (金)

デリーの遺跡 10-3  ムガール王朝(Mughal rule) 番外編  バハンダル・シャー・ザハー(Bahandur Shah Zafar)

インド・ニューデリー駐在員がお届けしているマカイバリジャパンのインド駐在ブログ。

インドに出張中の石井洋子がお届けします。

1857年、英国はデリーの北インドのほとんどを傘下に
おさめていました。詩人でもあったムガール王朝の最
後の王バハンダル・シャー・ザハー
(Bahandur Shah Zafar)は、英国と戦うこともなく、
城を明け渡します。
そしてビルマのラングーン(Rangoon)に国外追放に
なります。

英国はレッドフォートのカシミール門から場内に入って
きました。
バハンダル・シャー・ザハー(Bahandur Shah Zafar)王
が国外追放になったレッドフォートに英国国旗を掲げた
のでした。

バハンダル・シャー・ザハー(Bahandur Shah Zafar)王が、
その後50年近くをビルマで過ごし、亡くなるまでに
多くの詩を残しています

亡くなる前の詩2編です。

" How unlucky is Zafar
To bury his old body
Not 2 metres of land was there
In the country he loved most"

ザファーがもっとも愛している国に
彼の老いた身体を埋葬するための
2メートルの土地もそこにはないのだ
なんと不運なザファーなのだ.。

"When I die ,make for me
a small tomb, for my desires
Large tomb for my body"

私が死んだら、私の願望のために
小さなお墓をつくってください。
私の肉体をおさめるために
大きなお墓をつくってください。


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≪ジャマリーカマリ(Jamali-Kamali)のお墓の中。彩色がきれいです。≫


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≪ジャマリーカマリ(Jamali-Kamali)のお墓の中。≫

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≪ジャマリーカマリ(Jamali-Kamali)のお墓の中の美しい模様≫

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≪ジャマリーカマリ(Jamali-Kamali)のお墓の中の美しい模様≫

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≪デリーから少し離れるだけで、こんな田園風景が残されています。≫


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≪大木も多いのです。≫

                                    続く


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2008年10月 9日 (木)

デリーの遺跡 10-2  ムガール王朝(Mughal rule) 番外編 モハンマド・シャー

デリーの遺跡 10-1  ムガール王朝(Mughal rule) 

インド・ニューデリー駐在員がお届けしているマカイバリジャパンのインド駐在ブログ。

インドに出張中の石井洋子がお届けします。


1707年粛清政治を行ったオーランガゼーブ死後、人々は
詩、ダンス、音楽など、楽しむようになりました。

ペルシャとの交流も多くなり、1735年のモハンマド・シャー
(mohammad Shah)王の時代は、華やかな宮殿生活に
なりました。

しかしペルシャ王に攻められて、コヒンドル(Kohindoor)という
値段もつけられない世界一大きな立派なダイヤモンドを、
ペルシャ王に持っていかれてしまいます。

ペルシャ王はモハン・マド・シャーがターバンの中に
コヒンドルのダイヤモンドを隠していることを秘密に知り、
お互いに兄弟になるには、ターバンを取り換えようと提案して、
ペルシャにダイヤモンドをもっていってしまったのです。

このコヒンドルのダイヤモンドについては、その後も転々と
国々を行き来して最後にインドに戻ってきたそうです。

ムガール王朝の最後の王バハンダル・シャー・ザハル
(Bahandur Shah Zafar)は、非常な高レベルの詩人であると
ともに非常に弱い王でもありました。王としてレッドフォート
(RED Fort)の宮殿の中だけにいて国の統率をしていました。
ムガール王朝最後ザファー王が残した有名な詩を次号で
ご紹介します。

                      続く

下記写真4枚はフマユン朝時代1528年から1529年に作られた
ジャマリーカマリ(Jamali-Kamali)の宮殿、モスク、お墓、井戸
です。この庭園の中で生活していた様子が残されています。
お墓の中の美しい彩色が残っている様子の写真は
明日掲載します。

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≪ジャマリーカマリ(Jamali-Kamali)遺跡跡。現在は中を散歩できます。≫

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≪ジャマリーカマリ(Jamali-Kamali)宮殿跡≫

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≪ジャマリーカマリ(Jamali-Kamali)遺跡の跡≫

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≪ジャマリーカマリ(Jamali-Kamali)遺跡の中にある井戸≫

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≪ジャマリーカマリ(Jamali-Kamali)お墓の建物の入り口≫

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≪遺跡の中のジャングルに生息している孔雀≫

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≪遺跡跡のジャングルは山羊の散歩道でもあります。≫

                                         続く

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2008年10月 7日 (火)

デリーの遺跡 10-1  ムガール王朝(Mughal rule) 番外編 6代目オウランガゼーブ

インド・ニューデリー駐在員がお届けしているマカイバリジャパンのインド駐在ブログ。

インドに出張中の石井洋子がお届けします。


ムガール時代についての番外編です。
1526年の初代から1803年にイギリスに征服されるまでの
ムガール王朝の王についての話をご紹介します。

【17代まで続いた王朝の略歴】

1526年~1530年初代バーバル(BUBUR)

1530年~40年2代目フマユン(Humayun) 

1545年~1555年 サリム・シャー(Salim Shah)
(一時的に征服されるが10年後にフマユンが再度征服する。)

1555年~1556年2代目フマユン(Humayun)

1556年~1605年3代目アクバル(Akbar)

1605年~1628年4代目ジャハンギル(Jahangir)

1628年~1658年5代目シャー・ジャハン(Shah Jahan)

1658年~1707年6代目オウランガゼーブ(Aurangzeb)

これ以後の150年間は17代の王が交代しますが、どの王も
弱く力がなく側近の統率が続きます。

【6代目の王オウランガゼーブ(Aurangzeb)についてのお話】

シャージャハンの4人の息子の4男でした。
兄3人の領地を征服して殺し、最後には国の財政の疲弊の
元である建築狂の父親をレッドフォートに幽閉してしまいます。

オウランガゼーブは非常に敬虔で、強烈なイスラム教信者で
あるとともに、質素で禁欲的な生活をしていました。
イスラム教の布教の為にのみ、84歳までその後の人生を
過ごします。

父のシャージャハンの頃に盛んであった文化的な音楽、ダンス、
詩を禁止しました。税金はモスリム教の人間からは徴収しませ
んでした。そのためにシャージャハンの頃に疲弊していた財政も
潤ってきました。

王自信は自分の個人的な費用はイスラム教の帽子を自らが売り、
個人の生活費にしていました。王が亡くなった時には、王個人の
資産はわずか18ルピーしか残されていませんでした。


Photo
≪2代目 フマユン王(Humayun)のお墓。綺麗な彩色の後が残されています。≫


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≪イギリス人がムガール王朝征服後、レッドフォートの敷地内に
建設した兵舎≫

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≪イギリス人が征服後、最初に建てたキリスト教会≫

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≪イギリス人が建設したキリスト教会。お墓が併設されています。≫


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≪イギリス統治時代の火つけ塔。常時火がともされていたので、火をもらいに
きていました。≫

                          続く


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2008年10月 1日 (水)

デリーの遺跡 9-2  ムガール王朝(Mughal rule) シャー・ジャハナ・バード(Shah Jahanah Bad)7th City of Delhi

インド・ニューデリー駐在員がお届けしているマカイバリジャパンのインド駐在ブログ。

インドに出張中の石井洋子がお届けします。

ムガール王朝の5代目 シャージャハンが、デリーに
シャー・ジャハナ・バード(Shah Jahanah Bad)第7の都市を
造りましたが、モスクも造っています。それがジャマ・マスジット
(Jama Masjit)です。

写真でもわかるように、インドで最大のモスクです。1658年に
完成しています。今回は早朝にジャマ・マスジットに行きました
ので、参拝の人も少なく、モスクをいろいろな角度から撮影す
ることができました。

ムガール王朝がつくった城壁、宮殿、モスクなど、過去の
デリー王朝に比較するとその巨大さが実感できます。

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≪ジャマ・マスジットの入り口≫

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≪ジャマ・マスジットの正面≫

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≪ジャマ・マスジット正面≫

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≪ジャマ・マスジットの中庭。早朝だったので人がほとんどいず、
広々とした印象が強烈でした。≫

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≪地方から出てくる人も多く、中庭で寝ていました。≫

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≪ジャマ・マスジットから、レッドフォートを見ました。≫

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≪素焼きの水がめを売っていました。この中に入れた水は冷たく美味しいのです。≫

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≪バナナだけを売っている引き売りもよく見かけます。≫

                        続く

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デリーの遺跡 9-1 ムガール王朝(Mughal rule) シャー・ジャハナ・バード(Shah Jahanah Bad)7th City of Delhi

インド・ニューデリー駐在員がお届けしているマカイバリジャパンのインド駐在ブログ。

インドに出張中の石井洋子がお届けします。


ムガール王朝(Mughal rule)
1633年アグラに有名なタージマハール廟を建てた5代目
シャー・ジャハン(Shah Jahan)が、オールドデリー
ヤムナ川の堤の傍にシャー・ジャハナ・バード
(Shah Jahanah bad)と命名したデリー第7の都市
7th City of Delhiを造りました。

皇帝の宮殿の中の美しいホールは、赤い石(red stone)で造られて
おり、エメラルド、ルビー、ダイヤモンドなどで贅をつくしています。
現在ではレッド・フォート(The Red Fort)として知られており
有名な観光地になっています。

天井にルビー、真珠、エメラルド、で埋め尽くされた孔雀の絵が
あるホールには、次の言葉が書かれています。

If There is Heven on Earth .
It is here・・・ It is here・・・
It is here・・・
地上に天国があるものならば
それは、ここです・・・
ここです・・・ここです・・・

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≪レッドフォートの城壁。≫

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レッドフォートの城壁≫

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≪贅をつくした装飾≫

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≪模様の一部です。大理石に宝石がちりばめられています。≫

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≪宮殿の真ん中を水が流れるようになっています。≫

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≪左側に斜めになっているところから、水が流れてきます。≫

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≪オールドデリーは宗教のお祭り日で、若者の男子と少年たちが
写真のいでたちで、レッドフォートまで練り歩きました。
日本のみこしを思い出しました。≫

                    続く

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2008年9月29日 (月)

デリーの遺跡 8-1ムガール王朝(Mughal rule) プラナ・キラ(Purana-qila) 6th City of Delhi

インド・ニューデリー駐在員がお届けしているマカイバリジャパンのインド駐在ブログ。

インドに出張中の石井洋子がお届けします。


ムガール王朝 (Mughal Rule1526-1857)の統治

ムガール王朝は南インド、ベンガル地方、ペルシャとの国境
まで奥深く王国を広げていきました。

1650年まで王国の首都はアグラでしたが、デリーには
プラナ・キラ(Purana-qila)に第6番目の都市を造りました。

モンゴル人は、ペルシャ建築様式に非常な感化を受けて
自分達特有のスタイルの建築物を追求しました。美しい
建築物が多く残されています。

ムガール軍隊の有力な指揮官クラスは、ラジプット(Rajput)
の有力者との異なる人種との結婚を積極的に行い、英国が
デリーを攻撃し征服者になるまでインドに住んでいました。

ラジプットは、デリーに1052 年に攻めてきて王国をつくった
アジメール人です。勇敢で気品があり、身体も大きく
立派だったのでムガール王国から尊敬をされたのでした。

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≪プラナ・キラは入場料を払って入ります。整備されています。≫

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≪城壁≫

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≪延々とつながる城壁跡。幅広く、頑丈につくられています。≫

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≪モスク≫

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≪お墓≫

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≪お墓≫

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≪図書館≫

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≪入浴場の跡。火を焚く場所があり、暖かい水が流れるように
  設計されている。≫

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≪植木屋さん。間もなく涼しい季節をむかえるので、
植木屋さんも忙しくなります。≫

                            続く

 


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デリーの遺跡 7-5 ロディ王朝(LODHI DYNASTY)5th City of Delhi

インド・ニューデリー駐在員がお届けしているマカイバリジャパンのインド駐在ブログ。

インドに出張中の石井洋子がお届けします。


ロディ 王朝(LODHI DYNASTY)

サイイド王朝の次はロディ王朝になります。
この王朝はデリーのあらゆる神聖な場所に自分達の死後のお墓を
造りました。偉大な聖人ニザムディンにもお墓を造り、
ロディ王の希望によりニザムディンに埋葬されました。

ロディ王朝の遺跡はあらゆる場所で現在でも見ることが
できます。有名なのはロディーパークの名前の立派な
公園がありますが、その中にお墓があります。

デリーゴルフ場はこのロディ王朝の遺跡をレイアウトして
イギリス人が設計しました。

我が家の近くのグルモハールパークもロディ王朝の遺跡の
中に公園がつくられています。

この頃中央アジアでは、モンゴル人が力を得てきて次々に
征服をしていました。とうとうデリーにも攻めてきたので
ロディー王朝は首都をアグラに移します。

しかし1526年 モンゴル人の偉大なカブール(Kabul)王
バーバル(Babar)に征服をされてしまいます。

そして、これ以後300年間バーバル(Babar)一族のモンゴル人
によりムガール王朝のインド全体統治のスタートになります。
5代目がタージマハールで有名なシャージャハンです。


Photo
≪ロディ公園の中にあるロディ王朝のお墓≫

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≪上記の墓の内部の天井。美しい装飾がされています。≫

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≪ロディ公園の中にある別のお墓。現在修理中です。≫

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≪デリーゴルフ場の中にあるロディ王朝のお墓。
18ホールのメインコースはロディコースと命名されています。
9ホールのショートコースはピーコックです。≫

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≪ロディ公園の池に蓮の花が咲いていました。≫

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≪ロディ公園の池に白い蓮の花も咲いていました。≫

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≪オールドデリーの街の食事屋さん≫

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≪オールドデリーの街で30年以上食事屋をしている親子の方。
誇りを持って仕事をしている笑顔がとてもよかったです。≫

                     続く


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2008年9月27日 (土)

デリーの遺跡 7-4 サイイド王朝(SAYYID) 5th City of Delhi

インド・ニューデリー駐在員がお届けしているマカイバリジャパンのインド駐在ブログ。

インドに出張中の石井洋子がお届けします。


サイイド王朝 (SAYYID DYNASTY ) 1414年~1444年

この王朝は ヒサル カン(Hisar Khan)が最初の王ですが、小さな
王国でした。ツグルクの全ての都市と宮殿、モスク、及び、国の
統治のルールも引継ぎました。この王朝がつくったのは、自分達が
死後にはいるお墓のみでした。

統率者が代わるたびに、古い遺跡に継ぎ足しをしたり、一部つくり
直したりしていますが、下記の写真はサイイド王朝までの遺跡や、
モスクなどです。

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≪メロリにある宮殿跡≫

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≪メロリの宮殿前にある貯水池と庭園跡≫

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≪配水施設の跡。シリ・フォート≫

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≪ハウスカスにあるモスク跡≫

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≪ハウスカスエンクレーブにあるモスク。細長く、メッカに向かっています。≫

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≪ヴァサントクンジにある井戸の跡。階段をおりて行って水を汲みます。≫

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≪ヴァサントクンジにある入浴場施設。階段で入浴をします。≫

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≪遺跡のある公園でヨガや瞑想を楽しむ人たち≫

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≪瞑想をする人たち≫

              続く

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